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一つの世界

これもまた一つの世界

削除と復活

 敢えて更新しなかったというのは本当だし、ただ、書くことがなかったと言えばその通りだった。毎日はただ行き過ぎる。それは当然のことで、それ以外に僕らの胸を揺さぶることがあるのか。書き始めると勝手に文字は進んでいこうとするけど、今はそんなことはどうでも良くて、転寝さんアカウントの削除と現状の措置(ログ置き場としてアカウントは残す状態にした)について少しお話ししよう。

 転寝さんアカウントの削除については、ある程度予定調和というところがあった。あれは消すしかなくなると思っていた。僕は僕のアカ消しの理由を聞かれたときに、その人によって違う答えを返すかもしれないけど、それはすべて本当であって、やっているのはマスメディアのそれみたいなものだ。一言で言えば偏向報道。今から書くのも一つのそれかもしれないけど、全体的に薄く広く書こうと思う。

 僕はあそこに何もなかったなんて言うつもりはない。確かにあそこではいろいろなことがあった。喜びも悲しみもあった。そして、時に何もなかった。そのうち、単に喜びと悲しみのバランスがとれなくなった。何もないときが増えた。最後に、僕自身がいらぬものに憑りつかれた。憑りつかれたという言い方を、あまり人はしないかもしれないけど、まさしく憑りつかれたと言うべきだろう。そう、それは煩悩か、単なる寂しさか。決して埋まりはしないそれは、僕に何を求めるのか。わからない。そして次第にそれは大きくなっていった。僕はまた、僕が傷つけられることを極度に恐れていた。些細な言葉で僕は傷ついた。おそらく本人がそれほど意識していない言葉によって傷ついた。さらに、これはあまり大事ではないかもしれないけど、小さなきっかけがあった。機は熟したと思った。それだけだった(そしてその小さなきっかけについては、既になくなった。それでも、アカ消しの理由は残った。そういうことだ。)。

 現在、転寝さんアカウントは復活した状態になっている。わからない人にとっては突然消えた存在になっていたから、そして、僕自身ログを漁ろうと思ったから。後は、いろいろと、気になったから。ここは少しぼやかして言うことにする。そういう理由で復活させた。今のところあのアカウントでツイートするつもりはないけど、これからその辺の方針は変更する可能性もあるかなあ、と。今は少し見ようと思うのと、DMぐらいは少し機能させるつもり。御用の方はそちらへどうぞ。

 とりあえずこんな感じかな。そろそろ「掲示」の方も消そうと思ってたし、良いタイミングなので更新することにしました。また次は普通に書くかもしれません。ではでは。

涕は雨の夜に溶け行く夢のごとし

零れ落ちては消え行けど、隠しきれずに溢れ出づれば拾ひ

慟哭は静けきを破れど、心は声をあげず

惑ひは埋もれ、願ひはやみ、残るは偽りの温度のみ

お酒と理性と

 僕はお酒が嫌いだ。アルコール特有のまずさがある。とにかく気持ち悪い。ビールなんかは本当に無理だってときに飲んだら口の中であの味に耐えられずに吐く自信がある。それぐらい嫌いだ。ウイスキーをストレートで飲んで、喉に焼ける感じが来るのなんて別にどうでもいい。ただあのアルコールの味が嫌いだ。臭いも嫌いだ。だから僕はお酒が嫌いだ。生理的に無理ってやつだ。あと、強くもないのに顔が赤くならないから嫌だ。とりあえず、元来どうにも向いていないらしい。だけど、僕はこうも言われる。「酒を飲んだ方が陽気でやりやすいから、いつも飲んでいてくれる方が楽だ」と。

 僕は自分の無意識がどれだけひどい人間かを知っている。そしてどれだけ精神的な痛みに弱いかを知っている。だから理性で僕を覆っている。これがちょうどよく外れたとき、他人から見たら接しやすい人間になるらしい。お酒を飲んで理性を少し剥いだとき、同時に僕は感覚的に鈍くなっている。いや、むしろ逆か。感覚的に鈍くなっているから理性が少し剥がれるのか。これによって、痛みを感じづらくなっている。おそらくこれが一番大きい。精神的な痛みを感じづらくすれば、おそらくもっと僕は僕のままでいられた。これは以前から思っていることだけど、人は精神的な痛みの感じやすさによって、理性でどれだけ自分を押しとどめるか、本能の自分をどれだけ出せるかが決まるのではないか。つまり、精神的な痛みを感じづらければ、いくら傍若無人に振る舞っても平気なわけである。逆に、痛みを感じやすければ、理性で本能を覆い隠すことになるだろう。ただ、もちろんこの限りではない。生来の本能の性質によってもそれをどれだけ出せるかは決まるはずだ。そのままさらけ出してもあまり人を不快にしないため、従って人から傷つけられづらいという人もいるだろう。要するに、人がそのまま解放的に生きていられるかどうかは、まず本能の性質が他人から見てやりやすい、良いものであるかどうか、そして精神的な痛みを感じやすいかどうか。この二つのフィルターをどちらも通り抜けた人、すなわち本能の性質が他人から見てやりづらく、精神的な痛みを感じやすい人…僕みたいな人は、こんな風になってしまうということらしい。まあ僕はそうではないから好き勝手言ってるけど、実際に本能の性質が他人から見てやりやすいタイプの人間も、そういう人たちなりの苦悩みたいなものもあるのかもしれない。結局は痛みの感じやすさか。そんな気もしてくる。

 ――さらば痛い人たちみんな。これからも頑張っていきましょう。

感性

 何をきれいと思うか、何を好きと思うかなんて人の自由だ。僕の好きや嫌いは何で象られているのだろうか。

 字はその人を表すと言う。僕の字は教科書体や明朝体を目指していた。誰から見ても基本的に見栄えが良いもの。先生が教える正解。実際のところ、止めがうまく止めきれず、母には字が下手だと言われ散々だけど、正直止め以外は僕の字はそこまで下手じゃないと思う。また、例えばピカソの絵がある。僕にはキュビスムなんてわからないからただ写実的な絵が好きだし、彼の絵が好きではない。ただ、彼は普通に写実的に描こうとすればうまく描け、その上であれをやっているらしい。つまりは基礎がある上で自分の個性を作り出し、そこで勝負をしていた。そしてそれは感性が磨かれていないと理解できない。つまり、絵の感性など皆無な僕には彼の絵の良さがよくわからない。そういうものだ。

 僕の感性はいつどこで作られたか。僕は昔から人の言うことを聞くタイプの人間だったから、親や先生などが正しいと教えたことが正しい、みたいな感性の作られ方をしたはずだ。それが崩壊したのは大学生以降だけど、それ以前は基本良い子ちゃんの感性を持っていた。それが僕の字であり、僕の倫理観であると思っている。そうしてその頃の万人受けしやすい基礎的な感性を、いかに磨いていくかなのかもしれない。いや、単にこれは処理流暢性の話なのかもしれない。処理流暢性とはここでは、簡単に言うと何度も見ているとそれが正しく見える、みたいに受け取ってもらえればいいと思う。処理が容易になるとそれが正しく見えるということだ。つまりはそれに近いものをたくさん見てきたから、好きなような感じがするというだけかもしれない。そんなことは今となってはわからないけど。

 最後に、僕を擁護しよう。誰もに嫌われづらくしたいなら、ステレオタイプにするのが一番だろう。それが無難だ。だって僕にはピカソの絵が子供の下手な絵のように見えてしまうんだから。

僕と音楽(とライブの話)

 僕が音楽をまともに聞くようになったのは大学生になってからで、それまでは母の車の中で流れていた音楽ぐらいしか知らなくて、あとは学校の授業ぐらいだった。学校の授業の音楽は好きだった。実技科目は体育の球技と音楽だけ好きという感じで、他は好きじゃないというか美術とかは特に苦手だった。脱線してしまったので元に戻すと、授業の音楽は好きだった。歌うのも結構好きだったし、楽器も嫌いじゃなかった。高校の芸術科目の選択でも音楽を選択したので、コードとか長3度とか、その辺の基本的なことは少しわかる。母の車の中ではZARDELTなどがかかっていたから、一時期のアルバムはだいたいわかる気がする。高校の終わりぐらいに、友達と遊びに行くときにカラオケに行くことが少し出てきて、高校時代の親友が好きだったミスチルを少しだけ聞いた。それだけだった。

 大学に入って一人暮らしを始め、これが転機になった。僕は家族に音楽が好きだと公言したくないというか、それはなんとなく色気づいているような感じがするので、他のことも含めてそういうのを極力隠しているんだけど、それのせいもあって音楽を聞けなかったのもあるので、一人暮らしを始めて音楽を聞き出すようになった。初めはミスチルだった。それなりにいろいろ聞いて、2010年ぐらいのアルバム以前のものはだいたいわかるようになった。ちょうどその頃、僕はとあるSNSサイトである男性と知り合った。同い年でミスチル好きの浪人生だった。僕は彼と親しくなり、Skype等でも話すようになった。彼は弾き語りをするタイプの音楽好き青年で、僕は彼を音楽の師として仰ぐようになった。東京事変GRAPEVINENumber GirlBlankey Jet CityTHE BACK HORNフジファブリック、そしてSyrup16g。この辺りを聞くようになったのは、すべて彼の影響だった。そうして僕はSyrup16gと運命的な出会い(?)を果たした。最初はブラックなミスチル、ちょうど深海(アルバム名)の頃のような、と聞いて、僕もミスチルのダークな頃の曲が好きだったのでシロップを聞いてみた。――どはまりした。前にも言ったけど、メロディーから歌詞から何から何まで好みだった。言葉遊びを見つけるのも好きだった。とにかく大好きになり、すぐに多分ほぼ全曲聞いた。それから例の彼にそのことを話すと、「俺もベストしか借りてないから…」のような感じで言われ、それで彼もさらに聞くようになったという感じだった。とにかくすごいバンドに出会ったと思った。大学のつらかった頃はひたすらシロップばかり聞いていた。最初は耳触りの良い生活やセンチメンタルみたいなメジャー曲、それから真空やHeavenのような激しい曲が好きになった。そしてその後ずっと聞いている内に、ダウナーな曲がどんどん好きになっていった。テンションが低いときなどに日常的に聞くのにはダウナーな曲が一番向いている。この頃からCOPYというアルバムが大好きになった。一応断っておくと、僕はよく音楽をアルバム単位で聞く。これも例の彼の影響で、彼はよくこのアルバムが良いだとかこのアルバムの流れが…ということを言っていた。単純にそれが移っただけだ。COPYは基本的にとてもダウナーな感じのアルバムで、ひたすら繰り返し聞いていても何も邪魔しない感じの日常音楽というか、ずーっと聞いているのがまったく苦にならない感じのアルバムで、僕が知っている音楽のすべてのアルバムの中で一番好きなアルバムだ。大学3年のときは実験が週に2回あり、週に2回実験レポートを出す必要があったんだけど、やる気が湧かない僕はいつも0時ぐらいに起きてレポートを書いていて、そのときもだいたいCOPYを垂れ流していた。通学のときも何を聞くか迷ったらとりあえずCOPYを聞いていた。そんな感じでCOPYを聞きまくった。大好きになった。そしてもうこのときには自分の中でシロップを超えるアーティストはないと思っていた。ただ、シロップはもう解散しているバンドだった。ライブ等はないと思っていた。

 だが、M1(修士1年)のとき、シロップが復活した。何とも言えない喜びだった。復活ライブがあった。ただ、東京でのライブの日程が中国での学会発表の日と被っていた。そのことに気付かずに東京でライブに応募した。そして落選した。その後、何気なく落選した旨を当時のツイッターのアカウントでツイートしたところ、フォロワーさんからリプがあって、名古屋公演のペアのチケットが余っているとのことだった。僕はコミュ障マックスおじさんだし、名古屋は遠いと思って迷った。が、日程的にもぎりぎりセーフだしと、すぐに行く決心をしてチケットをいただいた。ペアのもう一人の人はそのフォロワーさんのフォロワーの女性だった。「ええいままよ」という感じでツイッターで少しお話しして、当日お会いした。乗り掛かった舟だし頑張るしかないと思った。結果としては、僕はもちろん初ライブだったので何もわからなかったし、ペアの方がいて良かった、という感じだった。もちろん会ってから少しお話しした。とりあえずシロップのことについて話したと思う。僕は冴えない学生なのでいろいろと申し訳ないと思った。会場ではペアの方のツイッターでの知り合いの方とも少しお話しした。僕はコミュ力0なので、「ひえー、みんなすごい…」と少々気圧されながら時が経つのを待った。ラッキーなことに、場所としては結構前の方にいられた。そしてついに…「Share the light」から始まったライブは、僕にとって忘れられないものとなった。直前に発売されたCDの新譜が多かったけど、盛り上がって楽しめた。僕は「君待ち」をやってくれたのが一番嬉しかった。モッシュというのかわからないけど、周りの人に押されて途中でペアだった人とははぐれてしまった。だから終わった後は一人だった。僕は夜行バスを予約していたのでそれに乗って帰った。次の日は朝から中国の学会発表のリハーサルだったから、バスの中で英語を念じなおしてから寝た。そこまで含めて良い思い出だった。

 そしてつい先日、またライブに行ってきた。ツイッターで少しお話ししたので知っている方は知っていると思うけど、大学のときの研究室に挨拶に行ってから会場入りしたら、研究室の方で思いのほか時間がかかったせいで開演ぎりぎりに着くことになってしまい、会場での位置取りが後ろの方になってしまって、後ろの方はあまり盛り上がっていなくて残念だった。前の方の人たちは盛り上がっていてとても楽しそうだった。次は絶対に開場前に並ぶようにしたい。内容としては、このときは新譜を一つも聞いていなかったから新譜はいまいちよくわからなかったんだけど、「Share the light」「Drawn the light」「My Love’s Sold」「神のカルマ」「天才」「空をなくす」「落堕」「生活」「Sonic Disorder」「真空」「パープルムカデ」「イマジン」とかはやってたはず。僕は周りがいまいち盛り上がらない中、必死に口パクで歌っていた。この日は帰りに高校時代の友達と会い、泊まらせてもらった。残念なところもあったけど、全体としてはとても楽しかった。

 こんな感じでシロップこそ最強と思っていた僕なんだけど、少し前にフォロワーさんから勧められたハヌマーンというバンドがなかなか良くて、初めて聞いたときにシロップ並の衝撃を与えてくれた。これからもっと聞いていこうと思う。何より、もうシロップを超えるアーティストは僕の中で見つからないとしても、他のアーティストも聞いてみるかという気にさせたのが大きい。普段から興味があまりない僕だから、興味を持つきっかけというのは非常にありがたい。だからそのフォロワーさんにはとても感謝している。

 というわけで、僕の音楽史(?)の大きな流れは、ミスチル→シロップ→ハヌマーンという感じで来ているのかもしれない。シロップの影響が強すぎるから、今後さらに変遷があるとしても、その最中で必ずシロップは聞き続けることになるとは思うけど、それでも少し前進していると感じている。最近では少し作曲をしたいという気持ちも出てきていて、でもそうだとすると勉強しないとだなあと思っていて、同じく作曲をしようかという気になっている中学からの東大卒の友達に教えてもらおうか、という気になっている。いずれにせよ、こんな感じで長々と無意味に進めてきたけど、とりあえず文章に起こせて良かったかな、と思う。そうそう、母が車の中で聞いていた中で、僕はZARDが好きで、この間アルバムを借りたしそのうちまた聞こうと思っている。…と、こんな話をしだすと長くなるので、そろそろ終わりにしようと思う。原稿用紙8.5枚分ぐらいの量になっちゃったけど、読んでくれた方、ありがとうございました。じゃあね!

頭つらぽよ型人間と頭幸せ型人間

 これから書いていくことは、本当に何の根拠もないことで、ただ与えられた条件と僕の知っていることから考えただけのことである。そのため、あまり本も読まなくて知識もなければ頭も悪い僕が適当に考えただけの戯れ言であるということは理解しておいてほしい。ただ、僕が考えたことを書き留めておきたいのと、誰かに聞いてほしい、そんな思いで書いているだけである。だから、考えの稚拙さゆえに大きな間違いや考慮できていない点なども多々あると思う。その辺りはお馬鹿さんだからしょうがない、ぐらいに笑って流してやってほしい。

 また、僕がこれから述べることはあくまで原因を追究するだけのことであり、そこからどうやったら変われるか、ということについては一切述べない。その理由は、僕はこれの解決方法が普通にはできない二つのこと、遺伝子の改変か脳の手術しかないと思っているからである。対症療法のような形もあると思うが、根本的に直すには上記の二つしかないと僕は考えている。前置きが長くなったが、そろそろ本題に入ろう。

 僕は、基本的にいつもつらいタイプの人間といつも幸せなタイプの人間がいると思っている。そしてこれを頭つらぽよ型人間と頭幸せ型人間と呼ぶことにする。一つ誤解しないでほしいのは、これを単純に二分するつもりはないということである。幸せ指数なるものが-100から100まであって、これはマイナスになればなるほどつらく、プラスになればなるほど幸せ、みたいなものであって、あくまでその数値がいくつより大きいと頭つらぽよ型、頭幸せ型、というように分けたいわけではない。グレーゾーンみたいなものも存在するし、二分できないものだというのは重々承知しているつもりである。ただ、ここで敢えてそのような名づけ方をしたのは、単にそういった呼び方をした方がわかりやすいからである。

 さて、僕は普段からつらくなりやすい人、幸せになりやすい人がいると思っているのだが、その原因の一つに”頭に浮かびやすいことの違い”があるのではないかと考えている。つらい経験が頭に浮かびやすい人はつらくなりやすく、幸せな経験が浮かびやすい人は幸せになりやすい。これによって、何か同じ問題が生じた際に、異なった対処法をとることができるようになる、これこそが頭に浮かびやすい事柄が異なる理由である。

例えば、いつも仲良しの幼馴染のAさん(幸せな記憶が浮かびやすい)とBさん(つらい記憶が浮かびやすい)が小熊に出会ったとする。ここで、AさんもBさんも幼少期に別の小熊と遊んでいた経験があったとする。このとき、Aさんは小熊と楽しく遊んだ記憶が蘇り、何の警戒もなく小熊に接しようとするかもしれない。逆に、Bさんは小熊に追い掛け回された記憶が蘇り、隠れようとするかもしれない。そして、このような行動の違いによって、この二人の生死が決まるかもしれない。Aさんが近くにいた親の熊に殺されてしまうかもしれなければ、Bさんが同じような憂き目にあうかもしれない。例えが悪いせいで伝わらなかったら申し訳ないが、このように同じ状況に対して違う行動ができるようになっていれば、どちらかが生き残るという可能性は高くなる。このことから、種の保存をしようとする生物にとって、頭に浮かびやすいことを変えるのは有意義であると考えられる。今述べたのは生死の観点からだが、他の観点からも種の保存にとって有用であると考えられるため、頭に浮かびやすいことが人によって違うのは、非常に正しい…宇宙の法則からすると非常に正しいことだと考えられる。したがって、僕は人によって頭に浮かびやすい事柄は違うのだと考えている。

 ここまでは頭に浮かびやすいものが人によって違うことの正当性を述べてきたが、以下ではそれがなぜかということについて考えたことを書いていこうと思う。僕は単純化すると、頭つらぽよ型と幸せ型が存在する理由には、三種類ありうると考えている。まず一つ目が、記憶への定着されやすさの違いだ。人によって記憶に定着しやすい物事が違うというのがこの考え方だ。まず、例えば、幸せな記憶はαという物質とともに、つらぽよな記憶はβという物質とともに記憶されるとして、このαやβが記憶の定着の一助となっている可能性がある。そして、αがあるときに記憶が定着しやすい人、βがあるときに記憶に定着しやすい人がいるとすれば、頭幸せ型人間と頭つらぽよ型人間の間に差が生まれる(この場合、αやβはベンゼン環のオルト位にアミノ基があるかパラ位にアミノ基があるか、ぐらいの小さな違いではないかとも思っている)。また、記憶を定着させる場所に違いがあるかもしれない。そして、その部位の記憶の定着させやすさが人によって違うのかもしれない。いくつもこのような例が考えられるかもしれないが、これが記憶を定着させるときの違いによる違いだ。次に、二つ目として、忘却のしやすさの違いが考えられる。さて、忘却を考える際に、まず記憶をどうやって忘却するのかを考える必要性がある。僕は何も知らないから、ここではとても単純なモデルで考える。それは、単に記憶が定着してそこから蓄積する部分に行くまでの間にうまく伝わっていかず、破損してしまう、というようなモデルだ。しかし、ここに関しては僕の中でなかなか結論が出ないというか、記憶というものがそもそもどんなものでどういう風に伝達されてストレージのところにまで持っていかれるかというのがなんとも言えないから、うまく考えられていない。簡単に言ってしまえば、現状適当なモデルがうまくあてはめられておらず、わからないということだ。記憶がどういうものかわからない今の僕では、それが伝達される方法、そしてつらぽよ系の記憶と幸せ系の記憶の違いによる忘却のしやすさの違いをうまく説明できる構図が浮かばない。そもそもここには差がないのかもしれない。最後に、三つ目として、記憶のストレージからの取り出しやすさの違いが考えられる。これは既にストレージの方に入った記憶を取り出すときに、つらぽよ型記憶と幸せ型記憶の間で先に取り出せるものが違うということだ。これは一つ目の記憶の定着のしやすさの話と似た話になるが、これらの記憶が何か異なる物質と関係がある場合、それの伝達のしやすさの違いが取り出しやすさの違いになっているかもしれないし、そもそもストレージの場所が違い、単純にそのストレージからの取り出しやすさに個人差があるのかもしれない。とにかくこの一つ目と三つ目はだいたい似たような構造であり、どちらもつらぽよ型の記憶が浮かびやすいか幸せ型の記憶が浮かびやすいかを変える要因となりうる。

 このように、いくつかの考えを書き綴ってきたが、これらのことを通して僕が言いたいのはたった一つのことである。それは、「頭つらぽよ型でつらくあろうと、あなた自身は何も悪くない」ということだ。むしろこれが言いたいがためにどうでもいいことをうだうだと書いていたのである。僕がこれまでに述べてきたどのパターンにおいても、その人たちが責めを負うべきところは何もない。いや、実際頭つらぽよ型人間と頭幸せ型人間が最初から決まっているという考え方は違うかもしれない。この間少し目にしたのだが、最近半年の記憶によって頭つらぽよ型か頭幸せ型かが変わる、すなわち基本的な思考回路がポジティブかネガティブかが変わる、みたいな考えだか研究成果だかがあるらしい。だがそうだとしてもどうだろうか。そもそもある時点を切り取ってそこから半年前がつねに頭つらぽよ型思考回路になってしまっている人を、その時点から頭幸せ型に切り替えられるのだろうか。これは無理であり、つまりはその一日後もそのまた一日後も頭つらぽよ型が続くとなれば、これは何の解決にもならない。頭つらぽよ型が頭つらぽよ型であり続けるしかないという事実からまったく逃れられていないのだ。この話はたまたま軽く目にしただけなので、そもそも正しいかもわからないが、これは僕らが意識を持った、というか、自我を持ったときには既に決まってしまっていることであり、僕らがどうにかできることではないということに変わりはない。だから、どちらにしろ頭つらぽよ型になってしまっているあなたはまったく悪くない。しょうがないよ、大丈夫だよ、と、それだけが言いたかったのだ。我ながら随分と迂遠なやり方をするものだと思う。

 さて、長くなってしまったが最後に。前述のとおり、これらの適当な考えは僕が記憶のメカニズムをまったく知らないために本当に適当なものであるということを述べておきたい。あくまでこういうことを考えるのが楽しいから考えただけであり、正しさなんてものはこれっぽっちもない。僕は既存の考えを知るより新たに自分で作り出す方が好きみたいだから、適当にこんなことを考えただけである。本来は正しい記憶のメカニズムを知って組み立てるべきところであるが、僕は怠惰なのでその辺はご容赦いただきたい(本当は楽しくいろいろなことを教えてくれる存在がいればそれが一番なんだろうとは思うが)。もし最後まで読んでくれた人がいたら感謝です。ありがとうございました。

ねんまつねんし

 年末年始は嫌いだ。一年で最も寂しいときだから。周りのみんなはどこかに行ってしまう。僕は外が人だらけなのが好きじゃない。結果独り籠る。いや、いつも独り籠っているんだから、そんなに悲観すべきことじゃないはずなんだけど。普段よりも独りでいないことを周りが当然としているというか。多分そういう空気があるからいつもの独りよりも独りがより際立つ。ただそれだけの話なんだと思う。とりあえず、僕は年末年始がとても嫌いだ。年が改まって何があるわけでもない。新年のあいさつに行かなきゃいけない。初詣なんて10年単位で行ってない。本来は今日あたりは何か来年の抱負を言うべきなんだろうけど、生憎僕は年が明けるからと言っても何もないから特にない。ただ、当たり前の日常が幸せであってほしい。僕は何にもない日常がとても楽しくあってほしい。空っぽで楽しくあってほしい。ちょうどこの間予約したゆゆ式を見ていたから、ノーイベント・グッドライフに対する欲求が強まった。外部を傷つけずに内部だけでひたすら楽しくしていたい。虚無で語るべきこともない日々が永久に続いていくのは見え透いている。僕は永劫高校時代を夢見て虚ろな毎日を過ごし行くのか。それでいいかもしれない。違う。それしかないのだ。希望は誰かの手で、僕の手ではない。その時点で終わっている。逆に僕が希望の手を伸ばしたい人も本当にそうそういない。僕は僕の倫理の一番の信奉者であるから、僕の理性が幸せになるべきだと思っている。また、同時に僕の本能は倫理に悖るから幸せになってはならず、潰すべきとも考えている。でもそれはできない。届かない。そこまで深く入り込めない。諦める。そんなことより、僕は僕の倫理に照らして、幸せになるべき人、幸せになってほしい人、そんな数少ない人のことを考える。彼ら彼女らのためなら、僕は手を伸ばしたい。きっとそれは僕の幸せなのだ。つまりはその人たちのことを愛しているんだろうか。わからない。実際のところどうなんだろうか。そして最後に、当然ながらその中に僕の本能の存在はない。残念ながらそれは事実だ。多分みんなからしてもそうなんだと思う。

 年末年始の憂鬱に中てられて思うがままに書いてしまった。久しぶりの感覚だ。ねえ、どうでしょう?あなたたちはどうでしょう。僕は負け犬だけど、あなたたちはどうなんでしょう。僕にだけこっそり教えてよ。