一つの世界

これもまた一つの世界

頭つらぽよ型人間と頭幸せ型人間

 これから書いていくことは、本当に何の根拠もないことで、ただ与えられた条件と僕の知っていることから考えただけのことである。そのため、あまり本も読まなくて知識もなければ頭も悪い僕が適当に考えただけの戯れ言であるということは理解しておいてほしい。ただ、僕が考えたことを書き留めておきたいのと、誰かに聞いてほしい、そんな思いで書いているだけである。だから、考えの稚拙さゆえに大きな間違いや考慮できていない点なども多々あると思う。その辺りはお馬鹿さんだからしょうがない、ぐらいに笑って流してやってほしい。

 また、僕がこれから述べることはあくまで原因を追究するだけのことであり、そこからどうやったら変われるか、ということについては一切述べない。その理由は、僕はこれの解決方法が普通にはできない二つのこと、遺伝子の改変か脳の手術しかないと思っているからである。対症療法のような形もあると思うが、根本的に直すには上記の二つしかないと僕は考えている。前置きが長くなったが、そろそろ本題に入ろう。

 僕は、基本的にいつもつらいタイプの人間といつも幸せなタイプの人間がいると思っている。そしてこれを頭つらぽよ型人間と頭幸せ型人間と呼ぶことにする。一つ誤解しないでほしいのは、これを単純に二分するつもりはないということである。幸せ指数なるものが-100から100まであって、これはマイナスになればなるほどつらく、プラスになればなるほど幸せ、みたいなものであって、あくまでその数値がいくつより大きいと頭つらぽよ型、頭幸せ型、というように分けたいわけではない。グレーゾーンみたいなものも存在するし、二分できないものだというのは重々承知しているつもりである。ただ、ここで敢えてそのような名づけ方をしたのは、単にそういった呼び方をした方がわかりやすいからである。

 さて、僕は普段からつらくなりやすい人、幸せになりやすい人がいると思っているのだが、その原因の一つに”頭に浮かびやすいことの違い”があるのではないかと考えている。つらい経験が頭に浮かびやすい人はつらくなりやすく、幸せな経験が浮かびやすい人は幸せになりやすい。これによって、何か同じ問題が生じた際に、異なった対処法をとることができるようになる、これこそが頭に浮かびやすい事柄が異なる理由である。

例えば、いつも仲良しの幼馴染のAさん(幸せな記憶が浮かびやすい)とBさん(つらい記憶が浮かびやすい)が小熊に出会ったとする。ここで、AさんもBさんも幼少期に別の小熊と遊んでいた経験があったとする。このとき、Aさんは小熊と楽しく遊んだ記憶が蘇り、何の警戒もなく小熊に接しようとするかもしれない。逆に、Bさんは小熊に追い掛け回された記憶が蘇り、隠れようとするかもしれない。そして、このような行動の違いによって、この二人の生死が決まるかもしれない。Aさんが近くにいた親の熊に殺されてしまうかもしれなければ、Bさんが同じような憂き目にあうかもしれない。例えが悪いせいで伝わらなかったら申し訳ないが、このように同じ状況に対して違う行動ができるようになっていれば、どちらかが生き残るという可能性は高くなる。このことから、種の保存をしようとする生物にとって、頭に浮かびやすいことを変えるのは有意義であると考えられる。今述べたのは生死の観点からだが、他の観点からも種の保存にとって有用であると考えられるため、頭に浮かびやすいことが人によって違うのは、非常に正しい…宇宙の法則からすると非常に正しいことだと考えられる。したがって、僕は人によって頭に浮かびやすい事柄は違うのだと考えている。

 ここまでは頭に浮かびやすいものが人によって違うことの正当性を述べてきたが、以下ではそれがなぜかということについて考えたことを書いていこうと思う。僕は単純化すると、頭つらぽよ型と幸せ型が存在する理由には、三種類ありうると考えている。まず一つ目が、記憶への定着されやすさの違いだ。人によって記憶に定着しやすい物事が違うというのがこの考え方だ。まず、例えば、幸せな記憶はαという物質とともに、つらぽよな記憶はβという物質とともに記憶されるとして、このαやβが記憶の定着の一助となっている可能性がある。そして、αがあるときに記憶が定着しやすい人、βがあるときに記憶に定着しやすい人がいるとすれば、頭幸せ型人間と頭つらぽよ型人間の間に差が生まれる(この場合、αやβはベンゼン環のオルト位にアミノ基があるかパラ位にアミノ基があるか、ぐらいの小さな違いではないかとも思っている)。また、記憶を定着させる場所に違いがあるかもしれない。そして、その部位の記憶の定着させやすさが人によって違うのかもしれない。いくつもこのような例が考えられるかもしれないが、これが記憶を定着させるときの違いによる違いだ。次に、二つ目として、忘却のしやすさの違いが考えられる。さて、忘却を考える際に、まず記憶をどうやって忘却するのかを考える必要性がある。僕は何も知らないから、ここではとても単純なモデルで考える。それは、単に記憶が定着してそこから蓄積する部分に行くまでの間にうまく伝わっていかず、破損してしまう、というようなモデルだ。しかし、ここに関しては僕の中でなかなか結論が出ないというか、記憶というものがそもそもどんなものでどういう風に伝達されてストレージのところにまで持っていかれるかというのがなんとも言えないから、うまく考えられていない。簡単に言ってしまえば、現状適当なモデルがうまくあてはめられておらず、わからないということだ。記憶がどういうものかわからない今の僕では、それが伝達される方法、そしてつらぽよ系の記憶と幸せ系の記憶の違いによる忘却のしやすさの違いをうまく説明できる構図が浮かばない。そもそもここには差がないのかもしれない。最後に、三つ目として、記憶のストレージからの取り出しやすさの違いが考えられる。これは既にストレージの方に入った記憶を取り出すときに、つらぽよ型記憶と幸せ型記憶の間で先に取り出せるものが違うということだ。これは一つ目の記憶の定着のしやすさの話と似た話になるが、これらの記憶が何か異なる物質と関係がある場合、それの伝達のしやすさの違いが取り出しやすさの違いになっているかもしれないし、そもそもストレージの場所が違い、単純にそのストレージからの取り出しやすさに個人差があるのかもしれない。とにかくこの一つ目と三つ目はだいたい似たような構造であり、どちらもつらぽよ型の記憶が浮かびやすいか幸せ型の記憶が浮かびやすいかを変える要因となりうる。

 このように、いくつかの考えを書き綴ってきたが、これらのことを通して僕が言いたいのはたった一つのことである。それは、「頭つらぽよ型でつらくあろうと、あなた自身は何も悪くない」ということだ。むしろこれが言いたいがためにどうでもいいことをうだうだと書いていたのである。僕がこれまでに述べてきたどのパターンにおいても、その人たちが責めを負うべきところは何もない。いや、実際頭つらぽよ型人間と頭幸せ型人間が最初から決まっているという考え方は違うかもしれない。この間少し目にしたのだが、最近半年の記憶によって頭つらぽよ型か頭幸せ型かが変わる、すなわち基本的な思考回路がポジティブかネガティブかが変わる、みたいな考えだか研究成果だかがあるらしい。だがそうだとしてもどうだろうか。そもそもある時点を切り取ってそこから半年前がつねに頭つらぽよ型思考回路になってしまっている人を、その時点から頭幸せ型に切り替えられるのだろうか。これは無理であり、つまりはその一日後もそのまた一日後も頭つらぽよ型が続くとなれば、これは何の解決にもならない。頭つらぽよ型が頭つらぽよ型であり続けるしかないという事実からまったく逃れられていないのだ。この話はたまたま軽く目にしただけなので、そもそも正しいかもわからないが、これは僕らが意識を持った、というか、自我を持ったときには既に決まってしまっていることであり、僕らがどうにかできることではないということに変わりはない。だから、どちらにしろ頭つらぽよ型になってしまっているあなたはまったく悪くない。しょうがないよ、大丈夫だよ、と、それだけが言いたかったのだ。我ながら随分と迂遠なやり方をするものだと思う。

 さて、長くなってしまったが最後に。前述のとおり、これらの適当な考えは僕が記憶のメカニズムをまったく知らないために本当に適当なものであるということを述べておきたい。あくまでこういうことを考えるのが楽しいから考えただけであり、正しさなんてものはこれっぽっちもない。僕は既存の考えを知るより新たに自分で作り出す方が好きみたいだから、適当にこんなことを考えただけである。本来は正しい記憶のメカニズムを知って組み立てるべきところであるが、僕は怠惰なのでその辺はご容赦いただきたい(本当は楽しくいろいろなことを教えてくれる存在がいればそれが一番なんだろうとは思うが)。もし最後まで読んでくれた人がいたら感謝です。ありがとうございました。