一つの世界

これもまた一つの世界

感性

 何をきれいと思うか、何を好きと思うかなんて人の自由だ。僕の好きや嫌いは何で象られているのだろうか。

 字はその人を表すと言う。僕の字は教科書体や明朝体を目指していた。誰から見ても基本的に見栄えが良いもの。先生が教える正解。実際のところ、止めがうまく止めきれず、母には字が下手だと言われ散々だけど、正直止め以外は僕の字はそこまで下手じゃないと思う。また、例えばピカソの絵がある。僕にはキュビスムなんてわからないからただ写実的な絵が好きだし、彼の絵が好きではない。ただ、彼は普通に写実的に描こうとすればうまく描け、その上であれをやっているらしい。つまりは基礎がある上で自分の個性を作り出し、そこで勝負をしていた。そしてそれは感性が磨かれていないと理解できない。つまり、絵の感性など皆無な僕には彼の絵の良さがよくわからない。そういうものだ。

 僕の感性はいつどこで作られたか。僕は昔から人の言うことを聞くタイプの人間だったから、親や先生などが正しいと教えたことが正しい、みたいな感性の作られ方をしたはずだ。それが崩壊したのは大学生以降だけど、それ以前は基本良い子ちゃんの感性を持っていた。それが僕の字であり、僕の倫理観であると思っている。そうしてその頃の万人受けしやすい基礎的な感性を、いかに磨いていくかなのかもしれない。いや、単にこれは処理流暢性の話なのかもしれない。処理流暢性とはここでは、簡単に言うと何度も見ているとそれが正しく見える、みたいに受け取ってもらえればいいと思う。処理が容易になるとそれが正しく見えるということだ。つまりはそれに近いものをたくさん見てきたから、好きなような感じがするというだけかもしれない。そんなことは今となってはわからないけど。

 最後に、僕を擁護しよう。誰もに嫌われづらくしたいなら、ステレオタイプにするのが一番だろう。それが無難だ。だって僕にはピカソの絵が子供の下手な絵のように見えてしまうんだから。