一つの世界

これもまた一つの世界

お酒と理性と

 僕はお酒が嫌いだ。アルコール特有のまずさがある。とにかく気持ち悪い。ビールなんかは本当に無理だってときに飲んだら口の中であの味に耐えられずに吐く自信がある。それぐらい嫌いだ。ウイスキーをストレートで飲んで、喉に焼ける感じが来るのなんて別にどうでもいい。ただあのアルコールの味が嫌いだ。臭いも嫌いだ。だから僕はお酒が嫌いだ。生理的に無理ってやつだ。あと、強くもないのに顔が赤くならないから嫌だ。とりあえず、元来どうにも向いていないらしい。だけど、僕はこうも言われる。「酒を飲んだ方が陽気でやりやすいから、いつも飲んでいてくれる方が楽だ」と。

 僕は自分の無意識がどれだけひどい人間かを知っている。そしてどれだけ精神的な痛みに弱いかを知っている。だから理性で僕を覆っている。これがちょうどよく外れたとき、他人から見たら接しやすい人間になるらしい。お酒を飲んで理性を少し剥いだとき、同時に僕は感覚的に鈍くなっている。いや、むしろ逆か。感覚的に鈍くなっているから理性が少し剥がれるのか。これによって、痛みを感じづらくなっている。おそらくこれが一番大きい。精神的な痛みを感じづらくすれば、おそらくもっと僕は僕のままでいられた。これは以前から思っていることだけど、人は精神的な痛みの感じやすさによって、理性でどれだけ自分を押しとどめるか、本能の自分をどれだけ出せるかが決まるのではないか。つまり、精神的な痛みを感じづらければ、いくら傍若無人に振る舞っても平気なわけである。逆に、痛みを感じやすければ、理性で本能を覆い隠すことになるだろう。ただ、もちろんこの限りではない。生来の本能の性質によってもそれをどれだけ出せるかは決まるはずだ。そのままさらけ出してもあまり人を不快にしないため、従って人から傷つけられづらいという人もいるだろう。要するに、人がそのまま解放的に生きていられるかどうかは、まず本能の性質が他人から見てやりやすい、良いものであるかどうか、そして精神的な痛みを感じやすいかどうか。この二つのフィルターをどちらも通り抜けた人、すなわち本能の性質が他人から見てやりづらく、精神的な痛みを感じやすい人…僕みたいな人は、こんな風になってしまうということらしい。まあ僕はそうではないから好き勝手言ってるけど、実際に本能の性質が他人から見てやりやすいタイプの人間も、そういう人たちなりの苦悩みたいなものもあるのかもしれない。結局は痛みの感じやすさか。そんな気もしてくる。

 ――さらば痛い人たちみんな。これからも頑張っていきましょう。