一つの世界

これもまた一つの世界

未来

 宵闇に染まった街で、彼とぶらぶらと話し、歩いていた。大学生の騒ぎ声がする。月は雲に隠れ、ぼんやりとしか光を送らず、行く先を照らすのはほぼ人家と街灯の明かりのみ。ときにぼんやりと同じ角度で光に向かって旋回し続ける虫を眺め、ときに車のヘッドライトに目を細めていると、ふと彼が立ち止まった。僕は彼にぶつかりそうになって我に返る。目に留まったのは赤い信号の光だった。

 

 『僕はつねに前を見て進んでいきたい。なんなら今この道路を渡ってしまってもいい。』

「……君は真っ暗だとわかっていても歩き続けるのかい?」

『うん、だってその先には光があるはずだからね。』

「…僕は立ち止まってしまったから、君に問おう。君はどうして歩き続けられるの?」

『単にその先に光があると信じているだけだよ。』

「…じゃあ言い方を変えよう。どうして光があると信じられるの?」

『それは……わからない。けど、きっとあると信じた方が楽しいじゃないか。』

「…なるほど、わかった。何もかも。ありがとう。」

 

 ――わかりきったことを聞くのはよろしくないと、そんなことを思った。きっと彼はこれまでに暗い道を歩んできたとき、光に行き当たれた。そして僕は行き当たれなかった。その経験の差がこの考え方の差を生み出す。はたまた、根本的な考え方の差なのかもしれない。陳腐な言い方をすれば、ポジティブであるとかネガティヴであるとか。そしてあるいは。僕は目を閉じる。あるいは、それはただ彼にとっての光が…光が、とても薄いものなのかもしれない。僕が求めるまばゆい光ではなく、ぎりぎり前が見えるような光でも、彼にとっては光なのかもしれない。確かにそれも一つの答えかもしれない。ただ、そんなことはどうだって良いのだ。いずれにせよ、僕は何もない、暗がりですらもないこの街の中を、ふらふらと、真っ直ぐに、歩き続けなければならない。僕は彼らのように踊ったりもしないし、また、うずくまって動かなくなったりもしない。ただ眼前の静けさに目を研ぎ澄ませ、来たるべき時を待つ。きっと来ないそれは、とても暖かくて、優しくて、それだけでまぶしい光なのかもしれない。はたまた、ただ僕を傷つけて去っていくだけの点かもしれない。そんなことは僕にはわからない。一つだけわかるとすれば、僕はきっときっと、それに出会えないということだ。それでも僕は歩いていくのか。歩いていけるのか。

 答えは一つ。僕はそう思った。それは、これまでの僕の道程が照らし出している。会えようが会えまいが、僕はただひっそりと歩き続けるのみなのだ…。

 いつか信号は青になり、「またね」とだけ言って、彼は歩きだす。僕は何も答えず、しばらく彼を目で追った後、この何もない道をひそかに引き返し、家へと戻っていった。月はまだ、雲の外に顔を出さないのだった。

中学校時代①

 僕は人が楽しく生きられるかどうかにおいて、最も重要なのはその遺伝的な性質であると考えているけど、また、環境の要因もとても大きいと考えている。僕の中学~高校時代は、とにかく環境が良かったというべきだと思っている。今回はそんな中学校時代について書いていきたいと思う。

 前にも書いた通り、僕は地元(田舎)の公立の小学校からそのまま地元の公立の中学校に進学した。僕の年から県内で初めて中高一貫の高校ができるということで、数人この中学に進学したけど、僕はそんなものに興味はなかったので、そのまま地元の中学に進学した。余談になるけど、僕は小学校時代になぜかこの中高一貫の中学に進学するという勝手な噂が流れていた。ふとこんなことを思い出してみると、その頃からある程度勉強ができるイメージがついていたのかもしれない。そんな感じで、僕は中学では勉強においてはつねに学年トップの成績だった。だいたい僕は自分のことに関してはなんでも適当にしてしまうので、勉強においてもそんなところがあって、特に一生懸命勉強したという記憶はない。いや、これは語弊があるかもしれない。テスト前だけは人並みに勉強していたと思う。ただ、それ以外はまったくだった。宿題はちゃんとやるし、普通の人が普通にやることぐらいはちゃんとやっていたけど、それだけだった(塾には行っていたのでそれが良かったのかも?)。その宿題も提出日前日に焦ってやるという感じだったので、学習の成果としてはそれほどなかったのかもしれない。ただ、僕は短期記憶の能力がちょっとあった。これは昔の僕にとっての唯一の長所だったのかもしれない。文字列を文字列として覚えるのがとても得意だった(数式は苦手)。定期テストに出てくる記述問題の答えは、そのまま文字列として暗記してしまっていた。だから成績が良かった。ただそれだけだった。でも、これは思わぬ影響を与えた。つねに1位だったことが奏功して、かつてのいじめっこたちから一目置かれたというか、これ以降僕はこの人たちと仲が悪いという感じにはならなくなった。僕は彼らを永遠に「内」の意識に入れられないだろうから、ある程度壁を作ってしまうけど、向こうから普通に接してもらえれば、僕も普通に接することはできるようになった。受験期になると勉強を教えた人もいたぐらいだ。これは単に中学校の軽い縦社会のような環境のせいでもあるけど、勉強ができたことの影響も大きかったのだと思っている。そんなわけで僕の中学時代は基本的には平穏だった。

 友人関係に関しては、僕の中学は2つの小学校の生徒が来るんだけど、僕が通っていなかった小学校の人と特に仲良くなった。そして、1年生のときに同じクラスになった、後に野球部部長兼生徒会役員になる友達が、僕の親友になった。彼とは3年間同じクラスで、僕はよく彼と一緒にいた。彼は正義感が強く人当たりが良いタイプで、僕はだいたいこういう人と仲良くなる。僕の中学校時代がある程度楽しかったのは、これは高校時代にも当てはまるんだけど、休み時間等に彼と他愛もないことを話していたのが楽しかったというのが大きい。他にも、普通に友人と言える程度に仲良くなった人がある程度多かったので(僕にしてみれば多いというだけなので、一般的には少ないかもしれないけど)、やりやすかった。こういうところは本当に環境が良かったのだと思う。

 部活はソフトテニスにした。姉がやっていたというのと、走り続ける必要がないというのが大きかった(吐くので)。僕はまあまあうまいぐらいだったけど、最初の3年生が引退してからは団体戦のメンバーに入っていた。団体では県大会出場(2回戦敗退)と個人戦では地方大会ベスト16(ベスト8から県大会)が最高だったので、そこまでうまかったわけではない。そして、やっている内に無意識にグリップの持ち方が少し変になっていて、我流っぽくなってしまっていた。そんなこんなで、引退する頃にはソフトテニスに関してはなんとなくもうこれ以上うまくならないだろうと思って、諦めているところがあった。というか何に関してもそうなんだけど、僕は最初はある程度うまくなっていって、そのうち我流でそれなりにできるようになって、でももっと上のクラスまでいくと、基礎がおかしいからついていけなくなるというか、そのレベルで止まってしまう。だからもうダメだなと思ってやめてしまう。ソフトテニスに関してはこの感じがすごく強かった。だから高校でも続けようとは思わなかった。中学生や高校生においては、学校生活の中で授業の時間と部活の時間という2つがあると思うけど、僕は授業の時間も部活の時間も割と普通に楽しんでいた。あ、なんのプロットもなく適当に思いつくままに書いているからまたふと思い出したんだけど、僕は1つ上の部長だった先輩とよく話していた。今となっては何を話していたかもよく覚えていないし、なんでよく話していたかもよくわからない。この先輩は基本的に口数が少ない人だったんだけど、スポーツ万能でソフトテニスもとてもうまかったし、駅伝でも区間賞をとっていたような人だった。だから、普段僕と仲良くなる人のタイプとは異なっている。僕はよくこの先輩と話していたから、先輩は部員の中で僕と一番話していたかもしれない。僕はこの先輩の運動能力を羨ましく思っていた。純粋に、僕もこの人みたいに動きたいな、と思っていたし、それは無理だとも思っていた。僕は僕のやれる範囲でしかやれないと漠然と思っていた。他には、同級生とも普通にやっていた。基本的に身体を動かすのが好きなのもあって、部活はある程度楽しくやった。

 こんな感じで、基本的に中学時代はそれなりに楽しく過ごしたんだけど、それには環境がとても大事だったというか、周りの環境が良かったからある程度楽しく過ごせたんだと思っているので、中学時代の周りの人間には感謝している。まあ高校時代が一番楽しかったからそれには及ばないんだけど。

 あまり内容がない感じだけど、これ以上長くなってもあれなので、今回はここまでにしようと思う。勉強と部活に関してはこんな感じで(まだ拾いきれていないのは後でひろう(拾うと披露を掛けている…70点!))、次回はまた中学時代を書こうと思う。順序も適当で変な感じになったらごめんだけど、それぐらいのまあまあで普通のモチベで書いているのであしからず。ではでは。

小学校時代②

 前回は主にサッカークラブのことについて書いたけど、今回はそれ以外で小学校時代に印象的だったことを適当に書いていこうと思う。

 まず、僕のことを避ける人たちがいたことについて。これはサッカーの人たちも含めてだけど、僕のことを避ける人たちがいた。3年生ぐらいだったか、僕はそのうちの1人になんで避けるのかと聞いた。今となればこういうのをずかずかと聞くところがまず避けられる理由であると思う。それは置いておくとして、避ける理由を聞いたところ、「泣かないなら話しても良い」と前置きした後で、「べたべたしてきて気持ち悪い」と言われた。これは一つこの後の僕にとって大きな言葉だった。僕は泣いた。構うな、泣いてない、といった感じのことを言いながら泣いた。今でもそうだけど、どうにも感情が溢れてきてしまって涙があふれてきてしまうことがある。これはどうにも制御不能で、今になってもあれは不可抗力だからしょうがないと思う。とにかく、僕はこれ以降人にあまり触れなくなった。人が触れようとすると躱すようになった。ある種これはトラウマなんだと思うけど、これのおかげでそれ以降こういう問題はあまり抱えなくなった。

 次に、これはただの思い出話になるから飛ばしてもいいんだけど、小学校時代にずっと仲良くしていた友達がいた。この友達は僕の1学年下で、僕の家の裏の辺りに住んでいた子だった。後に僕の中学校の生徒会長になった彼は、少し病弱で、親に勉強をさせられているような子だった。彼も例のサッカークラブに入ったんだけど、彼は父親がサッカーをやっていて、それなりに足元でのボールの扱いはうまかった。ただ、体力等があまりなく、それなりだった。僕は彼と毎日のように遊んでいた。サッカーもしたし、ゲームもしたし、彼の友達の僕の1学年下の友達を集めて遊びもした。多分今でも僕が年下の人が割と得意なのは(と言っても一般レベルからしたら全然だと思うけど)、このときの経験があったからだ。僕は彼より運動も勉強もできたし、彼はどこか僕を慕っているようだった。僕らは本当によく遊んだ、小学校時代は。彼と遊んでいたときは、小学校時代で一番楽しいときだったと思う。ただ、この関係は彼が中学生になって終わってしまった。それは、中学では先輩後輩という関係ができてしまったからだ。中学生の僕は、これは本当に悲しいことだと思った。なんで先輩後輩なんてものを作ったんだと思った。僕はあくまで友達は友達でいいと思っていたし、今だって僕は年下の人にため口でしゃべられるのは全然問題ない。僕自身は年上の人にため口なんて言語道断だけど、僕がそれをされるのはまったく構わない。それなのに、あの中学の空気にいるようになったら、それを強制されるようで、どうにもお互いに喋れなくなってしまった。これは中学時代で一番悲しかったことかもしれない。

 最後に、こんなことばかり書いていても普通の人はつまらないと思うと思うから、ちょっと女子について書こうかと思う。因みに、これまでの話はすべて対男子のことだとも言っておこう。話を戻すけど、女子と言っても正直それほど思い出はない。僕はどちらかと言うと昔は女子の方が仲良くできた。というのも僕はいつまでもふざけていて列にならない男子より、ちゃんと列になってしゃべるのをやめる女子みたいな人だったからだ。だから結構仲良くしやすかった。僕は4年生ぐらいまではいじめっ子含む男子より、女子の方がある程度は仲良くできる人が多かった。ただ、5年生ぐらいになるとそれなりに意識するようになったのか、そこまで…という感じになった。あと、女子に関して言えば、誰誰が好きみたいに言われて祭り上げられるのが絶対に嫌だったので、誰も好きだと思わなくなりたいと思っていた。そうして実際にあの人が好きだみたいなのはなかった。容姿的な意味である程度気になるみたいなのはあったけど、それ以上は何もなかった。これは今僕が未だに誰も好きになっていない大きな理由の一つだとは思う。そして誰誰が自分のことを好きみたいに言われると、噂になるのが嫌で避けた。この辺については中学について書くときに譲ろうと思う。

 完全に忘れていたことを思い出したので、最後に付け加える。前回の記事の最後のところに、僕が人と関わるのが苦手になった理由に「もう一つ重要なのは、本能が非常に歪だったことだと思っている」という風に書いたので、これについて書きたいと思う。これは小学校時代にカテゴライズするのが正しいのかわからないけど、これまでにも書いてきたように、僕はもともと泣きやすく、人見知りが激しく、それだけで人とうまく関われないのに加え、人間的に攻撃的だったのだと思っている。今ではそこまでではないと思っているんだけど、かつては人を下に見る癖があったというか、それに安心する気持ちが強かったんだと思う。それでいて、自分は攻撃に対して非常に弱かった。ここの差異がすごくあった。昔と違って今ではあまり人としゃべれなくなって、研究室の助教にはいつも酒を飲んでから研究室に来てほしいなどと言われるレベルになったんだから、僕は変わったんだと思う。ただ、これで人は変われる、みたいには思ってほしくはない。この変化に関して言えば、何が変わったかと言うと、「内」の意識の中に入れない存在が増えたという変化なのであって、これは意識して変化させているものではない。僕は決して人は根本的に変われないと思っているんだけど、小手先でいくらか本能を見せる範囲を変えることもできると思っている。そして、この変化については、その小手先でなんとかしたことなのだと思う…すなわち、本能に対して蓋をする、これが僕の考える理性という「手」の基本的な役割(そしてこの理性の「手」はある程度凝り固まると動かなくなってしまうのが厄介なところ)なんだけど、それを無意識的に行っただけだと思う。これは学習的な無気力というものに似ている気がする。僕のこの件に関して言えば、「内」の意識に入れる人を理性的に、学習的に減らしたのではないかと思っている。話が変な方向に行ってしまってわかりづらくなったけど、とにかくそんな感じで矛盾した性質をもともと持っており、それを正しく世間の空気に触れさせたら、本能だけではなく理性の「手」の役割も加わって、人と関わるのが苦手という性質が加速したんだと思っている。

 さて、短いんだか長いんだかわからないけど、今回はこれぐらいにしておこうと思う。とりあえず小学校時代は終わりにして、次回は中学校時代を書こうと思う。最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。

幼稚園~小学生時代①

 ――あの頃は無敵だった。僕は幼稚園の年少(幼稚園2年のうちの1年目)で自転車の補助輪を外した。特に誰とも仲が悪いという感じはなく、当たり前に当たり前を過ごしていた。幼稚園の年長(2年目)になると、掛け算九九を覚えた。これは単に姉が小学2年生で覚えていたからで。それでこのときに覚えた(数年後には忘れていた)。僕のこの頃の苦手なものは高いところと図画工作系統全般、そして「外」であった。泣き虫だった。ただ、この頃には明確に「外」を意識していなかったから、今よりずっと本能の赴くままに生きていて、それは今の僕からすればまさに無敵という感じだった。

 小学生になっても、特に何も変わりはなく、僕は普通にやっていた。マラソン大会では1位だった。勉強は嫌いじゃなかった。夏休みの宿題は全部最後の辺りにやっていた。それでなんの問題もなかった。この頃は後にいじめっ子となるような子とも仲良くしていた。僕は本能を振り回していたけど、それでも問題なく生きていた。3年生になって1~2年でとても仲が良かった友達とクラス替えで別のクラスになった。僕はその友達とあんまり関わらなくなった。ただ、とにかくそれは普通だった。普通の関係性になっていった。そして依然として泣き虫だった。

 少しだけ泣かないことを覚えていった頃…それは3年生の後半ぐらいだったか。僕はサッカーを始めさせられた。休み時間にサッカーをやることは普通だったけど、小学校のサッカークラブに入ったのだ。これは親同士で仲の良いグループみたいなのがあって、そこで子供をみんなサッカークラブに入れようという感じだったと思う。これが一つ僕の小学校時代で一番大きな出来事だったと思う。とにかく僕はサッカークラブに入った。僕は長距離や球技は得意だった(逆に筋力を使う系統や身体の柔らかさが必要なものは苦手で、器械体操系は特にヤバい)から、特に問題なくレギュラーになり、また、後にトレセンにも選ばれた。とりあえず順序を度外視してこのサッカークラブのことについて話そうと思う。

 サッカークラブで僕は、最初は多分仲良くやっていた。いや、それすら今となってはよく覚えていない。ただ、僕はそのうちだんだんと孤立していくようになる。仲が良い人もいたんだけど、その人たちはより仲の良い人たちとグループを作り、僕はそこに入っていけなかった。そうして孤立を深めた。そしていじめっ子グループに軽く敵視されるようになった。これはおそらく僕が本能を振り回していた間に彼らに自我が芽生え、僕を疎ましく思ったのだと思う(実際、僕は高校まで勉強ではすべてオール5だったけど、小学校の通知表の生活面の方の評価はよくなかった)。よく集団から悪口を言われていた。僕は頭の回転が速くないからそれほどうまく言い返せないし、傷つきやすい質だから、ちょっぴりつらかった。それでも基本的にはその程度だった。おそらくそこまで大したことではなかった。一つ問題があったとすれば、フリーキックの壁になったときに、いじめっ子に腹にボールを入れられて吐いたことぐらいで。その後の悪口も相まって、それから僕はなぜか走ると吐くようになった。これは大きな問題だった。サッカーの練習のときに最初に校庭を2周走っていたんだけど、とにかくこれがまずつらい。どうにも途中で止まらないと吐いてしまう。サッカーの試合中でもそうだった。僕はサイドバックでそんなに走らなくて済んだ(というのはこのレベルのサッカーだとオーバーラップも何もなく、基本的には後ろにいるだけだったため)ので、攻めているときは歩いたり止まったりしていた。これは決して怠惰だったからではなく、吐きそうになっていたからだ。実際、僕は長距離が得意だったわけだけど、4年生ではマラソン大会をずる休みし、5年生では吐いて途中で棄権した(6年生ではうまく止まって吐くのをこらえ、なんとか10位ぐらいだった気がする)。

 そんなこんなで僕は人が怖いという感覚、人と関わりたくないという感覚を強めていった…というか、おそらくこの頃に交友範囲をものすごく狭めていった。それは自分が傷つくのが嫌だからだった。そして6年生になったとある練習試合で、僕は親が見に来たときに、試合が始まる前の何もない時間に、他の人たちがグループを作ってボールをけっている中で、独りで孤立しているのを見られた。これは僕にとってとてもつらかった。帰ってから親に「もうサッカーを続けなくて良い」と言われた。小学生時代で僕が一番つらかったのはこれだった。親にこの事態を知られてしまったのは本当につらかった。もっと良い子でいたかったんだと思う。でもそれはもう本能的に、生まれたときのスペックでそれができなかった。結局僕は最後までサッカーを続けた。

 僕は中学校まで田舎の公立のところに通っていたから、中学でもこの人たちと一緒になることになるのだが、一つ良かったのは、6年生の頃から中学生と一緒に練習していたことだった。何が良かったのかと言えば、キャプテンのいじめっ子(この人は僕にはそれほど突っかかってこなかったけど、一人同級生を不登校にしていた)が中学の先輩に言われたのだかわからないけど、僕をサッカー部に勧誘するためか、俄に優しくなって、そしてそれにつられて周りのいじめっ子も僕に優しくなったことだ。だから最後の数か月は結構ストレスフリーだった。トレセンにも行っていて実力は(あのレベルにおいては)それなりにあったから、それが幸いしたのかもしれない。ただ、僕は中学に行ってサッカーをする気はまったくなかった。というのはこの人たちの本性を知っていたからだ。この人たちと3年間同じ部活でやりたいとは思わなかった。ちょっとミスしただけで袋叩きにされそうだと思った。

 この辺りでサッカークラブについての話はやめようと思うけど、サッカークラブについて書いたら思い出したので、ついでに学校の休み時間でのサッカーの出来事で、一つとても印象的なものがあるので書いておく。それは普通の明るめで調子の良い人とボールの競り合いになったときだった。僕は彼の足に足が引っかかって転んだ。それはもちろん彼にもわかったはずだった。こういうのはもちろんファウルになるべきなんだけど、いじめっ子たちが「いや、足かかってないだろ」という風に言ってきて、ファウルにならなかった。このときに彼が何も言わずにいたことが僕の心に強く残っている。僕だったら絶対に「いや、僕の足がかかったしファウルだ」と言ってそこからリスタートさせるし、そしてこれがいじめっ子たちからいじめられる一つの理由ではあった。だが、彼は何も言わなかった。そして、後でそれについて謝ってくるかと思ったけど、それすらなかった。僕はとても理不尽だと思ったし、普通の人もこうやって攻撃してくるのかと思った。こうしてまた一つ人間が嫌いになった。彼の気持ちは痛いほどわかった。だからこそとても人間が嫌いになった。

 話を戻すけど、今になって僕が思うのは、僕が人と関わるのが苦手になったのは、本当に最適化された結果なんだということだ。おそらく僕は昔は本能のままに生きていて、そこで周りと衝突して、戦いになった。僕はこの戦いに敗れたんだと思う。それはなぜかと言えば、一番大きいのは泣き虫だったことだ。つまりは、精神的なダメージに対する許容量が少なかったためだ。いじめっ子たちが基本的に強いのは、精神的なダメージに対する耐性が強いからではないか。また、集団になるのが得意か否かというのも大きいのかもしれない。そんなこんなで僕は僕であるための戦いに負けたのだった。そして泣き虫ではなくなっていく頃、つまりは理性がしっかりと現れてきた頃から、僕は人と関わるのがとても苦手になった。確かに、昔から人見知りは激しかったが、これは同年代に対してはそこまで顕著ではなかった。ただ、この頃からは同年代も等しく苦手になった。そして、もう一つ重要なのは、本能が非常に歪だったことだと思っている。これについては少し長くなってしまったのでまたいつかに譲ろうと思う。とりあえず、次回は小学校時代の書いていないことについて書いていこうと思う。

 ここまでちゃんと読んできた人がいたとしたらありがとうございます。適当に感想とかお待ちしています(あんまり攻撃的なのはやめてね)。

幼少期

 僕が幼少期(幼稚園以前)について主に覚えていることと言えば、ジャングルジムに登れなかったこと(今でも高所恐怖症なので登れる気がしない)、紙飛行機の先に木の実をつけて飛ばしていたこと、車が好きで本に載っている車をすべて覚えていたことなどがある。親から聞かされた印象的な話だと、よく泣く子だったけれど、トトロを見ればいつも泣き止んでいたこと、極度の人見知りだったこと、ハワイに行って「おうち帰りたい」を連呼していたことなどで、この辺りは少し普通ではない感じがする。僕自身、今となっては自分は脳に軽度の障害を持つ人間だと思っているんだけど、この頃にはそういった自覚はなかった。今考えれば、幼少期の僕は「外」が怖くてひたすらそれに恐怖していたんだと思う。ここで言う「外」は未知の存在を含めて自分の味方だとわからない存在すべてのことであり、そういった意味で、外に出るということは文字通り「外」との接触だらけであるわけだから、それだけで大変な恐怖だったに違いない。人見知りもまた知らない人という「外」が怖いということであり、「外」への恐怖の現れである。実際今も僕は人見知りが激しいし、「外」が感じられる状態で外に出るのは嫌いだ(仲間内で楽しくしていれば「外」は感じられず、それなら大丈夫なわけだけど、一方的に「外」だけがある状態は正直に言えば怖い。)。また、この頃から怒られるのが非常に怖く、ただ怒られないように怒られないようにと生きるようになった。そして、今でも怒られるのはとても怖い。ともすればその恐怖からの解放のために泣いてしまうかもしれない。

 僕は恐怖というものによって人はある程度制御されるのではないかと考えている。極端な例を挙げてしまうと、殺人鬼にナイフを突き立てられ、ある要求をされたとき、基本的には恐怖からその要求を飲むことになる。恐怖するときは、このときと同じ脳内物質が量こそ違えど分泌されている。したがって、この性質を使って人の行動を制限する機構が恐怖である。これは一つ生物が生きる上で重要な機構でもあり、恐怖の大小をコントロールすることは、人格をコントロールすることにつながる。要するに、この大小を人によって変えれば、それだけで人は多様性を持つことになる。すなわち、これは生物が多様性を獲得する中で得た、後世まで遺伝子を残していく手法なんだろう。よって、僕が多くのものに恐怖するのも、人間である限り逃れ得ぬさだめの一つだったのだと思う。

 繰り返し言うけど、僕自身僕は脳に軽度の障害があると思っている。調べてもらっていないから誰もそういった診断は下していないけど、明らかに普通に社会生活を営むのはつらい。ここでは僕がその後どのように生きてきたかということを、自分で振り返り、今はそれに対してどう考えているかを文章にして明確化し、また、それを残し、後でまたその考えについて自分で振り返っていきたいと考えている。

 …なんて適当に並べたてたけど、死ぬまでに何か書いておこうかな、という軽い気持ちから書いているだけなので、あんまり構えないで適当に読み流してくれると助かる。あと、ちょっとこの文章変かなって感じた人がいたとしたらそれは正解で、これは数か月前に書き始めた文章に加筆した形になっている。その辺は大目に見てやってください。これからどれだけちゃんと書いていくかも未定だけど、とりあえずよしなに。